岐阜県坂祝町(さかほぎちょう)にある猿啄城展望台は標高265m、頂上までは30分〜40分ほどで到着することができます。階段が多いため、腿上げ運動がきついのですが、展望台からは日本ラインと呼ばれる木曽川の流れを上流の可児方面から下流の犬山方面まで見渡すことができます。景色が良ければ、御嶽山、名古屋駅前のツインタワーまで見渡すことができ、濃尾平野も一望。午前中に登るとモヤがかかっていることも多いのですが、眼下に川の流れを眺めることができる景色が広がります。
なぜ、木曽川を日本ラインと呼ぶかというと、江戸時代以降、木曽川の景観は文人から賞賛されており、大正2年、木曽川を(おそらく美濃加茂辺りから)犬山まで舟で下った志賀重昴氏が「ラインの風景そのまま」と表現したことがきっかけになったようです。志賀氏は犬山の光景をライン川のようだと表現したようですが、徐々にこの辺りの木曽川の風景を日本ラインが呼ばれるようになったようです(可児光生さんの「「日本ライン」下りの歴史」を参考にしています)。川辺町のグランドキャニオンが話題になっていますが、猿啄城展望台からの日本ラインも絶景だと思います。現在休止中ですが、美濃加茂市から犬山市まで遊覧できた「日本ライン下り」はさぞかし迫力があったのだろうと思われます。
その木曽川沿いを走る県道207号「勝山」交差点を北へ入り、線路を越えると「猿啄城展望台 登り口」の青看板が出てくるので左折。しばらく進むと手前に第二駐車場(線路脇)、すれ違いに注意が必要な狭い道を進むと第一駐車場があります。
駐車場には坂祝町のマスコットキャラクター「ほぎもん」が描かれた歴史案内板があります。そこが登り口になります。
途中、看板も無く登山道が分かれていますが、後ほど合流します。
展望台からの景色は下記の通り。
猿啄城は西村豊前守善政(にしむらぶぜんのかみよしまさ)、田原左衛門、多治見修理と城主が変わってっきたようです。1565年(永禄8年)には、織田信長の命令を受けた丹羽長秀が東美濃を攻めた際、先鋒だった河尻秀隆(鎮吉)(信長の家臣)によって落城。これに織田信長は「幸先いいね!」ということで、猿啄城の地名を勝山に改称して、それ以降、勝山城と呼ばれたそうです。この手柄によって、河尻秀隆が勝山城主となりましたが、河尻秀隆が1575年(天正3年)に岩村城へ移ったことで、廃城となってしまったようです(登山口の案内板を参考にしています)。
1997年(平成9年)、坂祝町誕生100周年を記念して展望台が建てられ、猿啄城跡は2000年(平成12年)に坂祝町指定の文化財となりました。城の歴史をはじめ、頂上から見る景色の中にも歴史を感じます。
歩いた日 2022.05.18